カーテン越しにその日の天気が分かる南向きの日当りの良い部屋で目覚める朝に、何とも言えないモヤモヤ感が漂う。毎日の生活に不満がある訳ではないのだが、スッキリ感がないのも事実である。そんな代わり映えのしない日々にダークなアラフォーという言葉がじわり迫ってくる。

朝、9時から始まる病院受付の仕事は、顔なじみの人、初めての受診で不安げな人、クレーム満載の人、医療器具や薬、飲料メーカーの営業マンなど、いろんな人がやってくる。当たり前だが、場所が病院だけに営業マン以外の人たちの表情はよろしくない。病院の顏である受付は、常に明るい表情で接したいと思っているが、近ごろは事務的に淡々と業務をこなしている日々だ。

以前5年間付き合った一つ年上の彼は、気も合うし、デートをしていても楽しい。彼の両親も公認の仲なのに、結婚へとは至らなかった。彼に「結婚」イコール「束縛」と考えてしまう既婚の友人がいたからだ。

家族は誰も「早く結婚しなさい」とは言わなかったが、この先結婚をどうするのか聴きたい様子は伝わってくる。ただ、友達のほとんどは結婚している。子供を持つ人もいるし、夫の愚痴は聞くが幸せそうだ。結婚したら、まぁ色々あるだろうが、新しい家庭を作って見たいとも思う。今の仕事が辛いわけではないが、営業マンに気を使うことは無くても患者さんには多少の笑顔も必要だ。作り笑顔も疲れてきた。このままでいいのだろうか。

実は今から半年ほど前の衣替えの頃に、意を決して結婚相談所の説明会に出かけてみた。コンシェルジュはにこやかにこのシステムの素晴らしさを説いた。どんどんその気になっていく自分に少しの嫌悪感と危機感がつのる。時間が経つにつれ、危機感がどんどん大きくなっていく。これに懸けてみようと思った。その日のうちに会員手続きを済ませた。一応、学歴も容姿も人並みと思っていたので取り立てて何の不安も心配もなかった。一番最初に目に留まるプロフィール写真は重要と聞いていたのでプロに撮ってもらった。準備万端整い、ここまで行動した自分に満足もした。

返事を待つ数日間は、顔の筋肉が自然と緩むような気持ちで「全員からOKの返事があったら、それはそれで、ちょっと面倒だな」とも思ったりしていた。正直、期待は膨らんだ。


「あけてびっくり玉手箱」とは、こういうことか。

さすがにショックだった。

 残念ながらお見合いは成立しなかった。会えばわたしの良さは分かってもらえるのだけれど・・・。

かくして、厳しい現状を目の当たりにする婚活が始まったのである。

 

あれからも自分に相応しいお勧めの相手を紹介してもらい1対1のお見合いもした。しかし、どれも良い結果に結びつかなかった。ならば次の手段に移るしかない。

一度に大勢との出会いがある婚活パーティーに繰り出すことにした。

デビューは大通りを一つ奥に入った筋にある落ち着いたイタリアンレストラン。男女8対8の少人数パーティーを選んだ。大通りの向う側はビジネス街。平日はビジネスマンでランチも賑わう辺りだが、週末は人通りも少なく静かだ。地下鉄からは程よい距離で、あらかじめ地図をもらっていたので迷うことなく15分前に着いた。

ドアを開けると美味しいにおいが漂っている。店に入ったすぐ左側に受付があり、まだ来ている人は男女一人ずつ、自分を含めても3人。皆緊張しているのか、おしゃべりしている人はいない。

感じの良いレストランだ。女子会なら盛り上がりそうだ。参加者は開催時間ぎりぎりにやってきた。中には遅れてくる女性もいた。

自己紹介タイムが終わると、軽食タイムがはじまる。立食のブッフェ形式でフィンガーフードやミニデザート、ドリンクが準備されていた。好きなものをお皿に取り、ドリンクを持って自由にテーブルに着く。ブッフェは人間模様を垣間見ることが出来るといっても過言ではない。てんこ盛りにしている人はその時点で私の選択肢から外れる消去法が適用される。賑わっているテーブルもあれば、だれも口火を切る人がなく黙々と食事をしているテーブルもある。

この日私は、3人の男性に声をかけられた。

食事も美味しかったし、いろんな人と出会えたけど、この後はどういう展開になるのかわからないが期待はある。

 家に帰ってから声をかけてくれた人の顏がはっきりとは思い出せない。今日は連絡は無いかもしれないが、また時間が経てば何らかのアクションはあるだろうとその日は少し期待をして眠りについた。しかし、数日たっても連絡はない。この空気感で連絡する気にもなれない。やっぱり結果は同じだった。

参加人数の多いパーティーにも参加してみた。心がときめく人からは声がかからない。結論から言えば、結果に変化はなかった。

断り、断られが続くとさすがにめげる。自分は結婚出来ないのではないか。いや結婚する資格もないのではないか。

もともと自信があったわけではないが、ここまで来ると自己否定になってしまう。人と顔を合わせることも億劫になってきた。しばらく休会しようかと思い始めた時、自分では変わりなく振る舞っているつもりだったが職場の人たちからは「翔子さん、最近元気ないね」と言われた。何気なく見た受付横の鏡に映った自分の顏は。

 

そんな日々を送っているある日、コンシェルジュからセミナーの案内があった。「笑顔とコミュニケーション」の文字が目に留まった。表情で人生は変わる!「えっ、そんなことで人生が変わるなんて」と思ったが、気になったので読み進めることにした。無表情や笑顔になろうとすると顏がこわばってしまうのは、実は顔が凝っているのが原因と書いてある。「顔が凝る?」肩や首が凝ることはあるけれど、顏が凝るとは知らなかった。顔の筋肉を鍛えると表情豊かで気持ちが前向きになる。アンチエイジング効果のおまけまでついてくる。そこにはこんなことが書かれていた。

 

“人間関係を築いていく上で最も重要なものが、一番初めの印象です。「人は見た目が9割」という言葉をよく耳にしますが、相手の懐に入るためには仕事でも恋愛でも笑顔が欠かせないことは多くの人が知っていることでしょう。しかし現実はなかなか難しく、自分がどんな表情をしているのかは分かりづらいものです。

当セミナーでは、視線の送り方、信頼される聴き方から表情筋の使い方まで実践して丁寧に身につけていきます。張り付いた笑顔ではなく、一人ひとりの輝く笑顔を引き出します。

笑顔は、自分自身だけでなく、相手をも元気にする力があるのです。女性にはあなただけの輝く笑顔を、男性にはよりスマートな出来る男を実現します。”

 

ことが上手く進まないのは、表情が原因なのか、上手く進まないから表情が冴えないのか。セミナー会場をどこなのか見てみると、JRも地下鉄からも徒歩5~6分のようだ。年齢が気になる。周りも気になる。このままでは仕事も結婚も中途半端になってしまう。私の将来はどうなるのか不安である。これはチャンスかもしれない。今週末の土曜日午後2時からセミナーが開催される。思い切って参加申し込みをした。申し込み覧の下に※あれば手鏡を用意とあった。お化粧する時に使っている手鏡を持っていくことにした。

 

会場はすでに10人ほどの女性が集まっていた。

セルフだが、お茶やコーヒーが用意されていて、ちょっとしゃれた空間になっている。受付を済ませると自由に飲んでいいそうだ。私は、コーヒーをいただくことにした。少しリラックスできた。時間が来ると40代らしき女性の講師がにこやかに話し始めた。会場は和やかな雰囲気で心地が良い。

今回は3回シリーズ “相手に好印象を与え、人間関係を円滑に進める豊かな表情と3つのヒント”

今日は1回目 顏の筋肉 表情筋と脳の関係の話と表情筋ストレッチのワークショップ。

最初に、自分の顏写真を撮る。一斉にスマホを取り出し、あちらこちらでパシャパシャとシャッター音が響く。

セミナー後どのように自分の顏が変化するのかを確かめるそうだ。

気持ちが沈んだり、やる気が起こらない、11の会話が苦手、顔がこわばり自然な笑顔になれない、表情が乏しい、口角が下がっている、などが気になる人に朗報である。顏の筋肉(表情筋)は感情をつかさどる脳と繋がっていて、脳で発生した感情は表情にあらわれる。辛いことも嬉しいことも。笑うと表情筋が脳を刺激して幸せホルモンの分泌を促し自然な笑顔になるそうだ。これは是非体験してみたいものだ。

顔のコリは自分では気づかないため、表情筋が使われなくなり、筋肉が固くなってしまい筋肉が衰えてしまう。

ストレスは顔にたまるそうで思考や感情がその人の顔をつくるそうだ。顏のコリと心のつながりを認識し、表情筋を動かすための準備をする。

まずは、座ったまま上半身のストレッチから。少し体を伸ばすだけでも気持ちがいい。次に顏のツボ押し。

生え際からゆっくり、優しく始める。そして静かにリンパマッサージへと進めていく。最後に優しく表情筋をほぐす。なんだか血行が良くなったように感じる。

今度は背筋を伸ばし、複式呼吸と発声練習。声を出すと意外と気持ちがすっきり。

続いて持ってきた手鏡を前に、魅力的な目元を作る眼輪筋ストレッチ。笑顔のつもりでも目が笑ってないと笑顔が不自然になるそうだ。作り笑いはたぶん、そうなんだろうなと感じた。

ゆっくり進めるのがコツ。次に口角。自分の口角の位置を確認する。口角は下がっていないか。口角が下がっていると表情が暗くなり、不機嫌な印象を与える。笑顔になれば心も落ち着き、前向きになれる。そして、相手をも笑顔に導く。笑顔は伝染し、良い印象を与える。いいこと尽くしの口輪筋ストレッチ。

時間も残り少なくなってきた。ここで、もう一度、自分の顔を写真に撮る。最初の顔写真と比べてみる。意外や意外。表情が明るく柔らかくなっているようだ。隣同士で確認しあっている人もいる。

なんだか気分も明るくなったような気がする。毎日無理をせず、少しずつ続ければ悩みも減り、自然な笑顔の自分を実感できる。なるほど。やってみる価値はあると思った。次回も受けてみることにした。2週間後のセミナーは、“相手に好印象を与え、人間関係を円滑に進める豊かな表情と3つのヒント” の2回目。前回の表情筋ストレッチのおさらいと人間関係を円滑に進める3つの技。3回目は、表情筋エクササイズと沈黙が怖くなく会話が楽しくなるコツ。これは3回とも参加したい内容だ。今日のセミナーだけでも自分表情が柔らかくなっていると思う。表情筋効果ってすごい。確かに表情が良くなると気持ちが前向きになることを実感した。家に帰る道のりは、ちょっぴりいい気分だった。

家に着くと、母は、夕食の支度にとりかかるところだった。帰宅した私の顔を見ると、母は微笑んだ。笑顔は本当に伝染するんだ。明るい表情の人といると、周りの人も明るくなる。これがセミナーで聞いたミラーリング効果なのか。夕食の手伝いをしながら、今日のことを母に話した。もちろん母も喜んでくれた。

 

 いつものように週が明け、いつもの生活が始まる。いつものように毎日大勢の患者さんが診察に来る。いつもの1日が過ぎていく、変わりなく。

2週間後、申し込んだセミナーを受講する。

  3回目のセミナーも無事終了し、いつものように仕事に着く。職場の同僚と昼食をとっていると「翔子ちゃん、最近いい感じね。なんかいいことあった!?」と言われた。「何もないけど・・。」

あのセミナーの効果かなと思った。

季節は移り、また衣替えの季節が近づいてきた。思い切って断捨離をしてクローゼットをスッキリさせようかと考えていると携帯にメールが届いていた。

結婚相談所からであった。「翔子さんに、是非お目にかかりたいという方がいらっしゃいます」とのことだった。良い循環に回り始めたと感じた。

午後の診察の時間まで、レセプトの整理をしていると、自販機メーカーの営業マンに声をかけられた。

「すいませーん、ちょっといいですか」

受付カウンターに出ると、名刺をくれた。いつもと違う人だ。挨拶をして仕事にもどる。

また、あわただしく午後の診察が始まる。

1週間ほどして、名刺をくれたメーカーさんが来ていて、目が合った。思わずにっこりしている自分がいた。

相手も笑顔を返してくれた。感じのいい人だな。

メーカーさんが来るたびにそんな光景が繰り返されたある日、彼がこちらに近づいてきてこんな事を告げた。

「美味しいイタリアンのお店を見つけたので、今度の日曜日よろしかったら一緒にランチはいかがですか」

 

あのセミナー、たしか社会人マナー講座もあったはず。

良い予感がしてきた。